月刊「しにか」巻頭エッセイより  
    

         “上海にて” 

                                                   佐藤 知樹                            

朝、いつもより早く目がさめ、おもむろにベッドから抜け出した。
外を見ると、一面に、朝もやが立ちこめていた。
静かに穏やかな朝が訪れようとしている。
ゆっくりとシャワーを浴び、冷えきった体を温めた。
一杯のコーヒーを味わいながら、朝からの予定をぼんやりと想い浮かべた。
そして、最初の目的地である静安公園に、足を向けることにした。

ホテルを一歩出ると、そこには、耳をつんざくような音楽が 満ち溢れていた。
まだ朝六時過ぎだが、上海展覧会館の前庭で、ラジカセのボリュームを一杯にあげ、
マンボ を踊ったり、練武をしたりしている幾つかの集団がいるのであった。
それぞれが、思い思いの音楽を流し、それぞれに朝の運動を満喫しているようであった。

その人達を横目に、十五分程ブラブラと歩くと、静安公園にたどりついた。
公園に一歩足を踏みいれると、そこでは信じられないほどの“沈黙”の世界が待っていた。
あちらこちらでお年寄りの人達が、指導者を中心に、黙々と“太極拳”に没頭しているのだった。
無心に、静かに、ゆっくりと、力強く動かす手足を見ていると、中国の歴史の大きさ、深さを感じた。
この静けさの中で、生への息づかい、生へのエネルギーがひたひたと私の肌に伝わってくるのであった。
目に映る一つ一つのものが、忘れかけていた大切なものを思いださせてくれた。
しらずしらずのうちに、我を忘れてカメラのシャッターを押しつづけていた。
そんな私に突然、“From Japan?”と老人が声をかけてきた。
一瞬、頭の中が真っ白になり、言葉につまってしまった。
Yes”と答えるのが精一杯であった。
私がボーッと立っていると、老人は自分達の輪の中に入るように手招きをしてくれた。
私はカメラをそばに置き、さっそく輪の中に加えてもらうことにした。
他のお年寄り達も手の動かし方、足の動かし方を手振り身振りで優しく教えてくれた。
彼等の心の大きさ、深さ、優しさをかいま見たような気がした。

午後からは“雷允上葯店”という漢方薬局にでかけた。
薬局の二階には、診察室がいくつもあり、そこで、中医(漢方医)が、診断して、
その処方箋を患者に渡していた。そして、それを薬局に持っていく。
そこで漢方薬を調剤してもらい、受け取とっていた。
驚いたのは患者が持って帰るその漢方薬の量であった。
大きな旅行カバン一つぐらいもあるのであった。 
日本では、約30グラムの漢方薬を600ccの水で煎じて服用する。
ところが、中国では、約150グラムの漢方薬を1リットルの水で煎じて飲むようである。
この5倍近くの漢方薬の量の違いは、どこからくるのか?
それは、日本人と中国人の体質の違いからくることなのか、
それとも水の違いからくる抽出成分のせいなのか、
含まれる生薬成分自体の違いなのか、はっきりしない。

薬局の中で一番にぎわっていたのが、“西洋人参”を売っているコーナーであった。
なぜ“西洋人参”なのか?
それは、朝鮮人参は体を温める傾向があり、服用後に、のぼせやほてり感を生じる事もあるが、西洋人参は清熱的に作用し、のぼせなどは少ない。そのため、病後、術後や体力の消耗の激しい時などには、穏やかに作用して、徐々に体力を取り戻してくれる。その穏やかさが好まれているのだろう。

中国には、「冬令進補」といわれる独特の養生法がある。
冬の間にエネルギーを貯え春から夏にかけて 病気にならないようにするのである。
そんな考え方からなのか、冬には特に、西洋人参を好んで飲んでいるようである。
大きめのフタのついたグラスやコップに“西洋人参”の刻みを一つかみいれ、
湯を注ぎ、それを自分の家や、仕事場においておき、ノドが乾いたときに一口、二口、飲むのである。
日本では、あまり見かけない光景である。中国では、“生水”が良くないため、生水を飲む習慣がない。
それで薄味で穏やかな西洋人参茶を飲む人が多いのかもしれない。

飲茶を食べに行った際、ビールを注文すると、生温かいままテーブルに出てきた。
不思議に思い尋ねると「冷たいものは体を冷やすので体に良くない」という返事に、
ただ、私はうなずくだけであった。さすがに、温病論の国、中国である。
そして、中国料理を食べた時、その独特の調
法を、物珍しく思った
菜にしても魚にしても、フライパンを油でいっぱいにし、充分に熱し、
そして、強火で料理をする。それは、食材のせいなのかもしれない。
日本では、食材は新鮮であり素材そのものを生かした料理が多いが、
中国は広大な国で、 運送に時間がかかり、新鮮さにかける。
火と油を通すのはそのためなのだろう。
確かに油を使うと180〜200度位まで加熱することができ、
加熱滅菌という事に関しては充分である。
そして、強い加熱と短時間で料理する事により、食材の表面から急速に水分が
蒸発しながら、火を通すことができる。そのため、口あたりも良くなる。
その上、ビタミンを壊さなくてすむのである。
又、中国では、コレラなどの伝染病による被害を定期的に経験してきたために、
食材に火を通す習慣がついたこともあるようである。

「医食同源」・「薬食同源」という言葉がある。
漢方薬自体、植物、すなわち、食べ物で処方されている。
つまり食べ物であると同時に“薬”でもあるという事なのである。
夜、油っこい料理を食べた後に、あっさりした中国緑茶を飲む。
次の日の朝は、ザーサイなどが入った薄味のおいしいお粥を食べる。
そうすることによって、胃腸も優しく、穏やかに、動き始めてくれるのである。
このように、食べ物と密接に関連させ、体のためには、なにがいいのか、
どうすればいいのかが、自然のうちに、工夫されているわけである。
 
中国では、「名医は未病を治し凡医は既病を治す。」と言われている。
つまり病気を治すことより、病気にならないための治療に
優れている人が名医であるという事。
中国医学の神髄は予防医学にあるのである。
かねがね知っていた事ではあるが、近代化の先端を行く上海でさえ、
民衆の生活の中に、自然に、深く根づいていることを知らされ、
これが文化なのだ、としみじみと思うのであった。