さて『傷寒論』では病気を以上のようなかたちでとらえていますが、よーくみると西洋医学のなかにも実は似たような発想で病気を捕らえている場合がある。ヤケドの誘因は,やはり熱病の場合同様に様々で、例えば放射線、炭火、火事、タバコの火(火傷)、熱湯(湯傷)、煮えたぎった油、太陽熱に基ずくものなどですが、そのすべてを熱によるダメージ、つまり、熱傷という病名に集約し捕らえているからです。そして、それを侵襲の度合に応じ、一度、二度、三度、四度の四段階にわけ、処置対策(Treatise)が試みられています。
ところが、つぶさに点検しますと、ヤケドと『傷寒論』の場合の集約化の間にはかなりの質的な違いがあります。ヤケドの場合はいろいろな誘因でもたらされたもの、それを更に“熱”という一つの共通観念に集約し、その“熱”を原因として発症してきた病気をヤケドと呼んでいるからです。つまり熱を誘発するもの(誘因)は多種多様ですが、熱という形に絞ってしまえば、熱の強さが一定なら、われわれの肌が受けるダメージ(熱傷)もだいたい同じ程度であり、これはそこに個体の介在する余地が減るからです。整理の仕方で個体差を縮めることができるということです。
ところが『傷寒論』のように熱病というかたちで絞ると、例え誘因が同じ場合でも個体の介在する余地が多いですから個体の差というものが著明にでてきます。私は、こういうのを“生きた”捕えかただというふうに規定してはいかがと考えておりますが、『傷寒論』では、これを熱の出方(様相)の差として捕らえ、実証の人の場合には麻黄剤が向き(適応し)、虚証の人の場合には桂枝生姜剤の方が向く(適応する)と考えていた、そう思われます。
しかし実際には生き物のことですからその中間型がいろいろあり、この実・虚という捕らえかたは、西洋医学の中には無い発想です。しかし、この発想をとり入れますと、同じ流感にかかった人の場合でも対応がすんなりとゆきますし、またやせ形で生来的に消化吸収能の低い病人が、頭に描いた理想像(モリモリ食べてスタミナ旺盛の実証型)を追い求め、却って病状を重くしているというような愚行も減る筈です。それから実証の人の胃部不快感は、胃癌を除けば、肝臓に由来する場合が殆どですから、胆石の有無や肝機能のほうを中心に検査を施行する、そういう方向がつかめますから、ずっと効率がよくなるなど、『傷寒論』から学びとり発展的に活用できる事柄は少なくない筈です。
さて、先ほど、『傷寒論』的集約の仕方は“生きた”捕らえかただと申しましたが、そう観てゆくと、ヤケドの場合の集約の仕方は“死んだ”捕らえかただというふうに見ることができるかと思います。いろいろな誘因で引き起こされたものをいったん均一な“熱”という概念に抽象単一化し、その熱(原因)による疾患をヤケドと規定し、対照的に対処しているからです。しかしこのように“死んだ”捕らえかたをしたほうが、先程も申したように誘因のかたちで捕らえた場合より個体差は減りますし、個体差が排除できれば、近代医学的な意味での正確さは増しますから正確な対処が可能になります。しかしこれは、対照的に対処するのには、正確さが増すというべきでしょう。
そして、皮肉にも対症的な正確さで捕らえようとすればするほど、病人を生きている状態に近い姿で捕らえるという立場から離れてゆきます。しかし今ここでは、そういう矛盾する点の解明よりも、近代医学がこれまでめざしてきた方向が、このような意味での個体差の排除による正確さの確保ではなかったか、その点を明らかにしておきたかったわけです。
しかし今ここでは、そういう矛盾する点の解よりも、近代医学がこれまでめざしてきた方向が、このような意味での個体差の排除による正確さの確保ではなかったか、その点をあきらかにしておきたかったわけです。
そこで、『傷寒論』が“熱病”というかたちで、つまり、より生き物に近い流動体性のある状態(誘因の段階)で捕らえていた疾患群に、近代医学が、指向し求めている正確さの思考を導入したらどういうことになるかですが、それは次のようになるかと思います。多種多様な誘因で誘発されたいろいろな熱病の中から熱だけを均一なものとしてまず取りだします。そして、この場合の熱は多種多様な誘因微生物が出す毒素とわれわれの温熱生産を司る中枢とが反応した結果生じたものです。ですから、ヤケドの熱とは発生源を異にしますが、ヤケドの場合同様に、この熱を原因として起こってくるものへの対応の仕方は個体差によるブレが少なくなりますから、より正確にかつ楽にできるようになります。
つまり発熱の為に、その熱が原因で生じた不快な諸症状やそれに伴う不安から病人の為に、その熱が原因で生じた不快な諸症状やそれに伴う不安から病人を解放し、また係留する高熱から病人を助ける為に、それに正確に対処する薬物を開発すればよいからです。じつはここから、あまり個体差にも左右されず、また何が誘因で発生してきた熱かということにもあまり気配りをしないでよい、熱病の“熱”に対してだけ、普遍的にかつ的確に反応(中和抑制)する解熱薬または解熱鎮痛薬=、例えば、アヘンヘブリン、アンチピリン、フェナセチン、アミノピリン(ピラミナド)、アンピリン、ミグレニン(クエン酸カフェインアンチピリン)、ピラビタール、サリドンなど・・・・・・の開発が始まりまり、連綿と続いてきたというふうに私は推測しているわけです。さてこのような開発過程からも推測できますように、ここには近代医学が採用している用薬の発想の原点(萌芽)があり、性格があると思います。それを具体的に整理してみますと、
(イ)当たりはずれがは少なくが、つまり適確性はあるが目標はあくまでも対症的である。
(ロ)言いかえると病人を“治す”との発想からは必然的に独り歩きし、離れてゆくものである。
(ハ)早く反応し速効性(効率)という要求には適している。
(ニ)病気や病人を“治す”というような発想は既に開発の頭初から念頭におかなくてよい。くどいようですが、生物特有の流動性、つまり個体差というものをなるべく排除し、“正確を期そうする”のあまり、熱病としてよりも、熱として捕らえようすれば、そこにはおのずとから対症的に対処するとの思考しか生まれてこないということです。ですから熱病を“生きた”捕らえかただとすれば熱のみでのそれは“死んだ”捕らえかただとみてよいのではないかと、先程来、申してきたわけです。
(ホ)そういう発想で開発されたものですから中和抑制が眼目であり、生来的に反生物的な性格を持っている、解熱剤の場合でいえば温熱生産中枢を麻痺抑制することで解熱の目的を合目的に早く達成すればいいのですから、いやおうなしに、それは反生物的な性格を持つわけです。
さて、西洋医学的に開発された薬物は、今,解熱剤の例で述べましたように対症療法が中心でしたが、第二次大戦を契機に多数登場したのは対象療法薬でした。対象療法といいますと、或いはお耳になじまない方もいらっしゃると思いますが、私は、結核菌とか赤痢菌とか肺炎菌とか淋菌とか、そういう対象物を選んで、それを抑圧し叩きつぶすことを狙いとした薬物をこう呼ぶことにしたわけです。制癌剤なども、ですから当然このワクに入ります。しかしもう少し深く立ち入って考えますと、従来の解熱薬とか鎮痛薬とか、咳止め、痒み止めの薬のような対症療法も、熱とか痛みとか、咳とか、痒みのような一つの症状をそれぞれ対象に選んで開発されたものですから、対症療法というのは煎じ詰めれば対象療法薬の一種であることがわかります。そこで、私は、用薬の発想という原点に立って観ると、西洋医学のそれは一つ残らずといっていいくらい、ほぼ対象療法薬であるとの結論に到達しました。そしていわゆる抗生物質は、対象療法薬中の最たるものですが、いみじくも、その名称が示していますように、生物に拮抗する物質ですから、生物の生命現象のどこか、つまり酵素系のどこかをアタックし、そういう意味で、やはり反生物的な性格の持ち主であることは、対症療法の場合と同じです。そしてここで“反”生物的であるという場合の生物の中には人間も含まれている点が、特にここでは重要です。その証拠に、結核菌に抗するストマイはわれわれの内耳神経細胞の酵素系にも拮抗するためにツンボを誘発し、また各種の誘発微生物に抗するクロマイで再生不良性貧血が誘発されたということは、これがわれわれの血を造る細胞(骨髄細胞)の酵素系にも抑圧的に抗した結果であることをしめしています。